ベルの不等式を直感的に理解する方法

2022年のノーベル物理学賞ベルの不等式の破れの実験が受賞し、(観測範囲内で)大いに盛り上がりを見せました。
それで気になってインターネットを駆使してベルの不等式を調べても、なかなかイメージが難しく、「そもそもこの不等式ってなに?」、「破れたらダメなの?」、「この不等式が成り立ってて欲しいという気持ちになれない。」と言った声が聞こえてきそうな気がします。
そこで今回は、ベルの不等式を直感的に理解するために図を使用した説明を試みます。 この記事を読むことで、ベルの不等式が如何に成り立っていそうか、敗れることがどれほど奇妙かを心で理解できることを目指します。
ベルの不等式には自分の知る範囲でも複数の流儀がありますが、今回はノーベル賞の研究で登場するCHSH不等式と呼ばれる形式と情報理論ベルの不等式と呼ばれる形式の2種について解説します。

測定値の相関

ベルの不等式を理解する上で欠かせないのは測定値の相関の概念です。
ここではCHSH不等式の方に特化した説明をするために、相関係数という量を用いて相関を説明します。
物理量$A$と$B$を繰り返し同時測定したときに以下のような測定値のテーブルが得られます。

測定値テーブル

この$A$と$B$の測定値の列がどれほど関係性が強いかを表すのが相関です。
$A\times B$の列を見ると、$A$と$B$の値が同じなら$1$異なれば$-1$になっていることが分かります。
今回は$1$か$-1$のどちらかの値しか取っていないので、各$n$においては同じ値になるか異なる値になるかの2択で、各$n$の$A\times B$の値を見るだけではどのような関係性があるのかは分かりません。
そこで、$A\times B$列の値を平均化してみます。
$A$と$B$が同じ値であることが多ければ、平均値は$1$に近くなり、異なる値が多ければ$-1$に近くなります。
そして、$A$と$B$が独立に値をとる場合には平均値は打ち消し合い$0$になります。
平均値が$1$に近ければ、$A$の値から$B$の値を精度良く推測でき、この時$A$と$B$は強い正の相関があると言います。 逆に$-1$に近ければ、$-A$の値から$B$の値を精度良く推測でき、$A$と$B$は強い負の相関があると言います。 どちらでもなく$0$に近い場合には$A$から$B$の値を推測するのは難しく、相関が弱いと言います。
この$A\times B$の平均値のことを相関係数と呼びます。

CHSH不等式の意味

CHSH不等式には4つの物理量と4つの相関係数が登場します。
以下の図を参照してください。

相関の推移律?

4つの物理量$A,B,C,D$の同時測定のテーブルがあり、$A\leftrightarrow B,B\leftrightarrow C,C\leftrightarrow D$の間でそれぞれ正の相関があるとします。
この時、$A\leftrightarrow B,B\leftrightarrow C,C\leftrightarrow D$の相関がそれぞれ正に強い場合には、直感的には$A\to B \to C\to D$と辿ることで、$A$から$D$の値をそのまま推測できる気がするため、$A\leftrightarrow D$にも正の強い相関が必然的に生じる気がします。
この直感を具体的に数式に落とし込んだものがCHSH不等式です。
上記の直感に沿うようにCHSH不等式を変形すると、
\begin{eqnarray} \langle AB \rangle + \langle BC \rangle +\langle CD \rangle -2 \leq \langle AD \rangle \end{eqnarray} と書くことができます。$\langle AB \rangle$は$A$と$B$の相関係数を表します。
上式の第1-3項は図でいうと上の3つの矢印の相関を表しており、これらの正の相関が強いと和が$3$に近い値をとります。
そこから$2$を引いているため、左辺全体は$1$以下で$1$に近い数字になります。
そして、右辺はその$1$に近い値以上である、つまり$A\leftrightarrow D$も強く正に相関することを意味しています。
以上がCHSH不等式の直感的意味です。*1

まとめると、4つの物理量の同時測定テーブルがあり、$A\leftrightarrow B,B\leftrightarrow C,C\leftrightarrow D$の間に強い相関があるとき、連鎖的な推測により$A\leftrightarrow D$に相関が必然的に生じ、その大きさを定量化したものがCHSH不等式です。

CHSH不等式の破れの実験

上記の説明から、CHSH不等式の直感的な理解はできたかと思います。
この不等式が成り立っていそうなことも何となく納得できたのではないかと思います。
関連する情報をもとに推測を行い、最終的な結論を出すプロセスに照らし合わせると、$A$というデータから$A\to B\to C\to D$と推測を行うことで$A\leftrightarrow D$に相関が生じ、それをもとに$A$から結論$D$を導くプロセスになっているため、これが成り立たないのは奇妙であると感じられるのではないでしょうか。
その奇妙な現象を生じさせるのが量子論であり、それを確認したのが今回ノーベル賞受賞に繋がった実験です。
先程の図を実験に落とし込む過程で注意すべきは同時測定の不可能性です。
古典論以外の(量子を含む)確率論では、一般に同じ自由度の異なる物理量を同時測定できる保証はありません。*2 CHSH不等式では相関係数が出てきますが、相関係数に出てくる物理量は同時測定する必要があるので、$A,B,C,D$をうまく配置する必要があります。
上図を注意深く見ると、$A$と$C$、$B$と$D$の間の相関係数は登場しないことに気づきます。
すなわち、$A$と$C$、$B$と$D$は同時測定する必要がありません。
そこで、下図のように物理量を配置することとします。

CHSH不等式の実験

この図のように赤枠同士を空間的に離れた場所に置くことで、異なる赤枠間の物理量は異なる自由度に属すると信じることができ、同時測定ができるようになります。*3
そして、この配置であれば、CHSH不等式に出てくる相関係数を全て同時測定によって測定できることが分かります。
このようにして実験を行ない、実際に不等式が破れていることを見出したことがノーベル賞の受賞に繋がったのです。

情報理論的なベルの不等式

最後に情報理論的なベルの不等式についても触れておきます。 Twitterで教えていただいて初めて知ったのですが、情報理論的なベルの不等式なるものが存在するそうです。*4
CHSH不等式と同様に物理量の相関に関する不等式ですが、相関係数ではなく、条件付きエントロピーと呼ばれる量を用いて定式化されています。
エントロピー$H(X)$とは、測定値が確率変数$X$で表せる場合、十分多い回数測定した結果の列は何bitで表現できるかを定量化したものです。*5
また、条件付きエントロピー$H(Y|X)$とは、$X$の測定値列を知っているときに、あと何bitあれば$Y$の測定値列を表現できるかを表した指標です。
これをCHSH不等式の場合の図に照らし合わせると、以下のような図が得られます。

情報理論ベルの不等式

図の矢印の向き(例えば$A\to B$)に測定値列を推測することを考えると、付加的に必要な情報量が条件付きエントロピー($H(B|A)$)です。 直感的には、$A\to B\to C\to D$という流れで$A$の測定値列から$D$の測定値列を推測するよりも、$A\to D$と直接的に推測する方が近道ができ、少ない情報量で推測できる気がします。 なぜなら、$A\to B\to C\to D$と寄り道すると、$D$には関係がない$B$と$C$の余分な情報を得る必要があるため、その分だけトータルで得る必要のある情報が増えてしまうためです。 このことを表現したのが情報理論的なベルの不等式で、以下のように与えられます。 \begin{eqnarray} H(D|A) \leq H(D|C) + H(C|B) + H(B|A) \end{eqnarray} 以上から、情報理論エントロピーも直感的に理解できることが分かりました。

ベルの不等式の破れは何を意味するか?

ベルの不等式の破れの説明として、不等式の破れは「古典以上に相関が強い」ことを表すと言われることがよくあります。
果たしてこの説明は正しいでしょうか?
結論としてはあまり正しくないのではないかと思います。
この記事では2種のベルの不等式とその直感的な意味を解説しました。 2種に共通する特徴として「①:相関の概念を用いた不等式であること」、「②:測定値の推測に関する制限を与えること」が挙げられます。
②をもう少し噛み砕くと、「$A\to B\to C\to D$が精度良く推測できるほど強く相関しているならば、$A\to D$の直接的な推測も"必ず"精度良く行える。」ことと言えます。
そうすると、ベルの不等式の破れは、「$A\to B\to C\to D$が精度良く推測できるほど強く相関していても、$A\to D$の直接的な推測が行えるとは限らない。」ことを意味します。
これは「相関の強さ」に関して言及しているわけではなく、測定値の連鎖的な推測に関して、直感的に成り立っていそうな関係が成り立たないことを意味しています。*6 その意味で、ベルの不等式の破れは「相関の自由さ」を表していると言えます。

以上が、ベルの不等式とその破れの直感的な意味です。

*1:全て負の相関なら$-2$で下から抑える不等式になります。この2つの不等式を合わせてCHSH不等式と言います。

*2:むしろ同時測定できることの方が稀です。

*3:相対論的な意味で空間的に離れた場所なら、局所因果律を認めれば同時測定ができます。

*4:鍵付きアカウントの方から教えていただいたので、アカウントは伏せますが、以下の論文をご紹介いただきました。 Wringing out better Bell inequalities - ScienceDirect

*5:ここでいうエントロピーとは情報エントロピーのことです。

*6:実際、相関の強さだけで言えば、全ての相関係数を最大の$1$にすること、または全ての条件付きエントロピーを最小の$0$にすることは古典確率論でも容易に達成できます。